開放より2段絞ったところ

徒然なるままに…主にカメラの事を書いていくことになるかと。

私の撮りたい写真とは。【3/4】

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こんにちは、壁紙です。

 

前回に引き続き、今回も「私の撮りたい写真とは。」というテーマで語っていきます。

 

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苦悩

マイナーなジャンル

私はお金はもらってるわけではないし当然アマチュアで活動しているわけなんですが、普通アマチュア写真家の人たちってどんな写真を撮っているんでしょうか。風景とか、ポートレートとか、スポーツとか、動物とか…。誰かの生活や人生について焦点を当てた作品を撮る人って、あんまりいないと思います。実際そういうように作られたカメラやレンズってみないでしょ?「スナップ専用」っていうものは。一昔前、フィルムが一般的でライカが一世を風靡していたころは写真というとスナップ写真がほとんどのように思われます。戦場写真もある意味スナップかもしれません。

そういった意味では私の求める写真っていうのは非常にマイナーなものであると言っていいと思います。「こういう写真が撮りたいんだよねえ」といってもそうそう「実は俺もなんだよ」なんて言ってくれる人はいません。

別に寂しいとかそういうことを言っているわけではありません。写真を撮るときは被写体・自分・カメラとの会話になるわけですから、結局シャッターを押す瞬間は一人なわけで。問題はライバルがいないということ。仲間と言った方があるいはいいのかもしれません。同じジャンルでお互いの写真を評しあう仲間がいないわけです。そうなると新たな価値観に気づいたり、いいところを盗むということもなかなかできないわけです。

報道写真…?

私の撮りたい写真っていうのはある意味報道写真に近いのかもしれません。どこで何があって、誰がどういう状況なのか。もちろんきれいな風景も撮りたいですし、大自然の中で動物を見つめるのも嫌いじゃありません。ですが、せっかくカメラという自分の見ている世界を語れる道具があるならばその世界を表現したいと切に思うわけです。

これは一種ジャーナリズムなんでしょうかね。自分ではよくわかりませんが…。

私とカメラと「ひと」と。

私とカメラ

私が写真好き、あるいはカメラ好きなのは、正直に言って「孤独でいることを正当化できるから」です。カメラを持っているときは輪の中から外れることも許されるし、誰もそれが変なことだとは思いません。私は別にコミュ障ではありませんが、人とコミュニケーションをとるということに苦手意識があります。被写体・カメラ・自分との会話は時間を深めれば深めるほど「写真の出来」という目に見える形でわかりますし、その点目に見えない「絆」とかそういったもので対価が支払われる人間関係と違って気楽なところがあるわけです。

カメラと「ひと」

人間っていうのはカメラにものすごく敏感に反応しますよね。ある人はカメラを向けられるとポーズを取ったり、ある人はそっぽを向いたり。みんな何かしらの反応を見せますよね。この反応の仕方も十人十色。カメラは決して喋りませんが、シャッター音は人にあたかも「声を掛けられた」ときのような反応をさせます。

私と「ひと」

先述のとおり、私はコミュニケーションに関しては控えめ…というか正直苦手です。特に初対面の人には…。いい年してまだ人見知りをしています。人見知りして、話しかけられないで、後々「あの時話しかけていたらどうなったかな…」と苦汁をなめることは今まで何回となくありました。多分私は「言葉」というツールはまだ使いこなせていないのでしょう。

私とカメラと「ひと」

ここまでの項目を整理する形になりますが、カメラを持っているだけでも持っていない時よりコミュニケーションが生まれやすい。「撮った写真見せて!」とか人によっては「どんなレンズ使ってるの?」などと聞いてくることもあります。ほんの些細なことですが、こういうやりとりがあるだけでも私は認められているという安心感を得ることができます。これは一つ、写真を本格的にやり始めた理由のひとつです。

自分の世界へ

描写から表現へ

今までの私の写真はなんていうんでしょうね…受け身であることが多かったような気がします。なんだかんだ自分の世界を表現するようなものではなく、その場をいかに美しく描写するかがすべてでした。この差は結構大きなものになると思います。撮る側としてはどれだけの思いを込めたかが変わることで写真に対する思い入れは変わるでしょうし、その思いは少なからず見る側にも伝わるのではないでしょうか。

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思うように「描写」できるようにならないと「表現」は難しいと思います。

私自身、割と自在に描写できるようにはなりましたが…きっとまだ足りないですね。それゆえ表現の世界も広がらないのでしょうか…。

描写の世界にはある程度の正解があります。鳥の羽毛をぼかしてパステル画みたいにしてしまっては被写体の良さをかき消してしまうし、色とりどりな花々をモノクロで撮るってのも考えものですよね。目の前に広がる地平線をわざわざ斜めに撮る人も相違ないでしょうし、集合写真でひとりにズームアップする人はまずいません。こういった感じに描写をする = 誰が見てもキレイだと思える写真を撮る時には一定のルールが存在します。

表現の世界は逆に正解はないでしょう。「混沌」を絞って撮るのは割とタブーだったりしますが…その「混沌」を表現したいならそれは正解です。それが世界観であるならば天地逆転すら正解になります。要はその人はどういう風にものを見ているか。これは単なる記録の範疇の「写真」ではなくて、芸術の域に達するものではないでしょうか?

芸術とインスタ映え

ですが実際にこういう風に写真を撮る人はあまり多くありません。それはなぜか。答えはインスタ映えという言葉の中に見出せます。

ところで…この記事を読んでくださっているあなた、インスタやってますか?世間がどんなものをよしとするかよくわかるので投稿しないとしてもきっと面白いですよ。んで…インスタ映えというのはそのインスタグラムで高い評価を受ける/受けやすい写真のことをことをいいます。これがまた面白くてですね…。インスタ映えには一定のルールがあります

  1. 1:1アスペクト比である
  2. 左右対称の構図である
  3. 遠近感(パース)が小さい
  4. 暖色系の色が多い

主にこの四つを満たしている写真が多いのではないでしょうか。1番に関してはインスタの写真投稿をする際は基本的に1:1に制約されるということもありますが、TwitterFacebookに投稿されている写真と大きく違うのはほとんどの写真が1番のように1:1のスクエアであること。それに影響されて構図は日の丸構図など左右対称のものが多くなります。また遠近感は小さくされる傾向にあります。これもスクエアであるが故の影響ですね。そして暖色系。インスタはどちらかというと女の子に人気があるSNSであるため、暖色系でゆるっとした雰囲気がある方がモテる印象があります。

つらつらと書きましたが、インスタ映えという一種の写真の評価にはルールがあるということ。逆に言えばこのルールに従っていればある程度「いい写真」が撮れるわけです。これはインスタユーザーの間にはあらかじめ「こういう写真がいい写真(インスタ映え)」という共通認識が根底にあり、それを満たすものがインスタ映えとして評価されるわけです。別に構図や被写体にもの珍しさは特段必要ありません。これは一種描写の域にいる写真です。「可愛い」といわれる写真であれば、その可愛さを描写しているわけです。

芸術の域

一方、芸術は少し違います。確かに人々の間には「芸術に対して求める基準」があるのでしょうが、世間の意見にこたえるのが芸術ではないと思います。個人個人の世界観を何かしらの手段を用いて表現するのが芸術です。写真も人の見るものをうつしとるわけですから、芸術の手段としては合格点です。

ですが、写真を芸術として確立するのは非常に厳しいと思います。絵画や音楽が色彩や音色を生み出すのとは違って、写真はすでに現実に存在するものを使って自分を表現します。すでに現実にあるということは、他の人も同じところで同じような写真を撮った可能性はあるということになります…。また自分を表現した写真が必ずしも世間に評価されるとは限りません。なぜなら世間にはすでに「いい写真」のルールが存在するからです。これはほかの芸術分野でも同じ境遇かもしれません。

 

【次の記事に続く】

 

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